がっかり

近年、いわゆる「スター級」の演奏家という存在が、音楽の世界からすっかり姿を消してしまったように感じます。これは音楽に限った話ではなく、芸術全般、さらには政治家や役者に至るまで同じことが言えるでしょう。かつては、その場にいるだけで周囲を圧倒するような存在感を持つ大物がいたものですが、今ではそのような人物は見当たりません。その一方で、技術面では全体的に水準が上がっており、没個性化の代償として、平均点が高くなっているように感じます。しかし、音楽ファンとしては、平均値が上がったところで、それほど興味が湧くわけではなく、心から「これぞ!」と思える逸材を求めているのです。

ピアニストの世界も同様で、現在活躍している中堅から若手の中で、真にスターと言える存在がどれほどいるでしょうか。キーシンがその筆頭に挙げられるかもしれませんが、それ以降の世代になると、記憶を辿っても目立つ存在が浮かんできません。技術的に優れたピアニストは数多くいるものの、オーラを放つスターが不在というのが現状です。

もちろん、非常に好ましい演奏をするピアニストは何人も存在します。しかし、ステージに立つだけで観客を魅了し、名前だけでチケットが完売するような人は、今ではほとんどいません。その中で、私が少し注目していた若手ピアニストの一人に、ユジャ・ワンがいます。

彼女はここ数年で頭角を現した存在で、特に数年前のトッパンホールでのリサイタルでは、ラフマニノフのピアノソナタ第2番が圧巻の演奏でした。その後、彼女のCDを数枚購入してみたものの、録音用の演奏にはやや堅苦しさが感じられ、ライブでの魅力が完全には伝わってこなかったのです。協奏曲でも彼女ならではの輝きを感じることはなく、もしかすると彼女はライブ向きの演奏家なのかもしれないと考えていました。

最近のCDは、制作コストの削減の影響もあって、ライブ録音をベースに制作されることが増えてきていますが、その過程でレコード会社の編集が過剰に介入しているのか、どっちつかずの微妙な仕上がりになることが少なくありません。

そんな中、先日のNHKクラシック音楽館で、ユジャ・ワンがデュトワ指揮のN響定期演奏会に登場し、ファリャの「スペインの夜の庭」とラヴェルのピアノ協奏曲を演奏しました。これまで若手の中で比較的注目していた彼女でしたが、この日の演奏は期待を裏切るものでした。全体的に惹きつけられる要素がなく、ただ彼女の優れた指の技巧だけが目立つ内容の乏しい演奏で、失望感が拭えませんでした。

それでも、「スペインの夜の庭」は幻想的な雰囲気を持つ曲であり、彼女の技術が際立っていたため、一定のメリハリがあって聴くに堪えるものでした。しかし、ラヴェルの協奏曲では、冒頭から「これはどうかな…」という思いがよぎり、その違和感が演奏全体に続きました。彼女の感性とこの曲の相性が悪いのか、終始かみ合わない印象でした。インタビューでは、13年前に日本のコンクールで弾いて以来、ラヴェルの音楽への理解が深まり、より自由な表現ができるようになったと語っていましたが、実際の演奏からはそのような成長を感じることはできませんでした。

彼女は珍しく、さまざまな表情や強弱を試みていましたが、それらがことごとく的を外していくのは不思議な体験でした。特に第2楽章の耽美的な部分では、ピアニッシモを強調しすぎたせいで、旋律がほとんど聞こえず、どういう意図で演奏しているのか全くわかりませんでした。また、リズムも不安定で、全体的に落ち着かない印象を受けました。

唯一健在だったのは、やはり彼女の超絶技巧です。この点では、彼女に匹敵する者はいませんが、その技巧が音楽に乗らず、スポーツ的な演奏に終わってしまったのは残念でなりません。

ユジャ・ワンは北京出身ですが、現在はアメリカで学んでいるとのことです。彼女の音楽がどこか「優等生的」にまとまりすぎているのは、アメリカの音楽教育の影響かもしれません。アメリカは、もともと西洋音楽の土壌がなく、偉大な音楽家たちが移住した地ですが、アメリカ独自の音楽文化が深く根付いているわけではありません。そのため、アメリカの音楽教育は、個性を伸ばすというよりも、型にはめた画一的な教育になりがちです。ユジャ・ワンのピアノにも、その「アメリカ的な退屈さ」が根付いているように感じられ、それが彼女の演奏の限界なのかもしれないと、納得すると同時に残念な気持ちになりました。

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